いろんなの話題を集めています。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000007-spn-spo

父の背を追ってプロに飛び込む。ロッテの育成ドラフト3位・角は「(夢を)実現できると信じて待っていた。どういう形であれ指名されてうれしい」と声を弾ませた。元巨人投手として活躍した盈男氏の次男。10月の入団テストで最終選考に残っていたが、横浜市内の自宅でテレビを見て、指名を受けると大粒の涙。そのまま父の運転する車で学校に駆けつけた。

兄の一晃(21)はエンゼルスのルーキーリーグでプレーする野球一家。父から「日々全力」という言葉をもらい、常に実行してきた。「現役時代は覚えていない。(元近鉄の)ブライアントに東京ドームのスピーカーに当たる本塁打を打たれた映像は何度も見てます」。1メートル68と小柄ながら高校通算36本塁打。「バットコントロールをアピールしたい。好きな選手はヤクルトの青木さん」。盈男氏は「オレが現役時代に一番苦手だった若松さんのような、いやらしい打者になってほしい」とエールを送った。
(ヤフートピックスより)


■豆知識 角盈男
鳥取県米子市出身。米子市立美保中学校、米子工業高校から三菱重工三原を経て、1976年のドラフト3位で読売ジャイアンツから指名を受け、翌年に入団。鼻の中腹部側面にある大きな黒子が特徴。

1年目の1978年に5勝7セーブで新人王を獲得。翌年は制球の悪さが顕在化し不調に陥ったが、1980年にオーバースローをサイドスローに改造して才能が開花した。球速こそ落ちたものの、課題だったコントロールが向上したことから頭角を現す。一方で、札幌円山球場の試合で連続与四球の不名誉な日本記録も作った。

先発投手としては無駄球が多く完投能力が低かったものの、変則的なフォームでタイミングが取りづらく、地肩が強く連投が利くことから抑えのエースとして活躍し、1981年に8勝20セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得。ファンからも絶大な信頼を得ており、場内アナウンスと同時に、巨人ファンの歓声と負けを覚悟する相手チームファンのため息が流れた。

その後、独特のフォームを他球団に研究されたことや、制球を乱しての救援失敗などもあり、リリーフエースの座を鹿取義隆に譲る(その頃から一部の野球ファンには「ノーコンピッチャー」という印象が付き始めた)。右サイドハンドの鹿取に対し、左サイドハンドの角はセットアッパーやワンポイントリリーフとして重用され、長く巨人のリリーフ陣の核として活躍した。

巨人時代初期の背番号変遷は目まぐるしく、また珍しい物がある。入団当初は「11」を与えられ、1978年のキャンプ時は同番号で参加していたものの、大洋ホエールズからジョン・シピンが移籍してくるのに伴い、公式戦前に同選手に番号を譲る形で「45」に変更。翌1979年から2年間は当初の番号と1番違いの「12」を背負った後、シピン退団翌年の1981年に当初の「11」に戻ったもので、元の番号に戻ると共に、ストッパーとしても開眼する形となった。

1989年のシーズン途中に日本ハムファイターズに無償トレード移籍。先発を務めたため423試合連続リリーフ登板の日本記録(当時)が途絶えた。通算では40試合に先発、3完投の成績を残した。1990年6月6日の近鉄バファローズ戦ではラルフ・ブライアントに東京ドームの天井スピーカーを直撃する本塁打(推定飛距離170m)を放たれた。
(ウィキペディアより)

 

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